「お孫さんに・・・」

「よろしかったら、お孫さんに…」と
満面の笑顔と共に、いきなり
プラスチックの玩具を手渡された。


見ると母の手には
いかにも小さな子どもたちが
一瞬だけ喜びそうな
いくつかのおもちゃが載せられていた。


咄嗟に、隣に立っていた私の口から
「どこのお孫さんに差し上げましょうか?」という言葉が出てしまった。
どちらも悪気は全くない。


相手の方はすぐに複雑な表情を浮かべ、「あの、夏休みでしょうから…」と
付け加えたが、お互いのこうした何ともかみ合わない会話に
いつもどう答えたらいいのかと戸惑ってしまう。


私に「子ども」は、ない。


年代からすれば、中学生や高校生の子供がいても
全くおかしくない年齢である。
実際、周囲の友人・知人たちは子供の受験に備えて
この夏は学校訪問と面接にかけずり回る人が多いらしい。


自分に子供がいないと、いくら周りで「子供が〜子供が〜」と語られても
イマイチよく理解出来ないことが多いし
母の年代になると今度は「孫が〜孫が〜」になるそうで
「孫いる派」と「孫なし派」の間には、微妙〜〜〜な空気が流れるらしい。


まぁどちらも「授かりもの」なのだから、そればかりは何とも言えないが
ただ、目を輝かせて嬉しそうに我が子・我が孫を語る身近な人たちの姿を見ると
ほのぼのする反面、少しばかり、どう対応したらいいのかと
複雑な思いになってしまう。


大学時代、心理学の講義で教授がこんなことを語っていた。
「親が我が子をかわいいと思うのは、自分に似ているからである」
その話を聞いた時、椅子から転げ落ちそうになるほど驚いた。
理屈や理論ではない、何かがある!と思った。


私には兄弟もいないので、「似ている」という概念も希薄だが
先日、15年ぶりに一番下の従妹と会う機会があった。
彼女は自分の娘を伴い、いきなり私の目の前に現れた。


一瞬、目を疑った。
幼き日の従妹がここにそのまま立っていた…様に思えたのだ。
しかも、どこか自分に似ている。
そして実際に、その小さな手も口もちゃんと動き、私の名を呼ぶのである。


かわいい!・・・と思った。
そして、従妹は叔母にそっくりになっていた。


聖書の創世記にこんな言葉がある。
『神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。
 ・・・神は人をご自身のかたちとして創造された。』(創世記1:26.27)
『神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。』(同1:31)


なるほど!・・・である。
そして、母の手に載せられたおもちゃの行方を真剣に考えた。
我が家に孫など存在しないし、さりとて友人・知人の子どもたちでは
年齢的に喜ぶまい。


何だかぞんざいに扱われたくなくて
海外在住の友人あての小包に入れることにした。
彼女たち夫婦にも子どもはいないが
なんとなく日本を懐かしみ、喜んでくれる姿が目に浮かんだ。


すぐに送付書の商品詳細の欄に“toy”と書き足し、郵便局に持って行った。
「お孫さんに…」ではなかったが、喜んでくれる人の笑顔はやっぱり嬉しいと思った。