踏切り待ち

冷え込む夜の病院通いが、体にとても堪える様になった。
乾いたばかりの洗濯物を手提げ袋に詰めて、車の後部座席にぽ〜んと放り込み
エンジンをかけて、サテ出発〜!



車も自分も全然温まらなくて、お互いにブルブル…と震えてしまうが
途中の踏み切りにひっかかりさえしなければ、10分足らずで到着してしまう。



やっぱり、一日じっとねかされ続けている父のところに行き
就寝前には顔を見て 「おやすみ」って言いたいからね。



昨夜は年が明けて最初の週末だったためか
道路渋滞が激しくて、なかなか先に進まなかった。
仕方なく途中から裏道を通り、いつもの踏み切りに続く道へと出たが
そこもまた大渋滞。



あらら・・・と思ったが、車は簡単に引き返せないし
川と鉄道だけは所定の橋や道路を通らないと越せないからね。



ターミナル駅が近く、発車・停車する電車や列車が次々と通るので
遮断機が実にこまめに上がり下がりするのだけれど
その合間にも貨物列車がゆっくりゆっくり通り過ぎて行ったりする。



そのたびに車のライトを消して
じ〜〜〜っと遮断機が上がるのを待つしかないのだけれど
昨夜は少々列車のダイヤが乱れていた様で
車両に人を一杯に詰め込んだ列車が、のろのろと今にも停まりそうな速度で
目の前の踏み切りを進んで行った。



やれやれ・・・。
これが始まると、そうそう簡単には遮断機は上がらない。
車のギアもニュートラルに入れ直し、長期戦を覚悟しながら待つ。



ふと、父のことを思った。
以前からのことを思えば、今は随分と楽になったものだ。



最初の父の入院は、片道1時間半かけて通う新宿エリアだった。
当時は父の難病を扱える医師や病院がとても限られていたので
全てのことにおいて、患者も家族も私情をリクエスト出来る状況にあらず
母も私もそれぞれの仕事をこなしながら、父の早期回復だけを願って
必死に父のケアを手伝い、見舞ったものだ。



そんな生活が何年か続き、とうとう母が疲れて入院。
私も仕事が休めなくて、仕方なしに病院側に事情を話し
(働かないと入院費が払えませんので!って、ごり押しした気がする〜:笑)
日替わりで父の病院・母の病院…と夜間受付を通って病室に入れてもらい
そっと洗濯物を交換してきたことも、今となってはもうすっかりひとつの思い出だ。



多分、20代という若さもあって体力的には乗り越えられたのだと思うけど
自分に降りかかってくる責任の大きさが半端じゃないと
ツライ〜!だの、大変〜!なんて思う余裕もなくなってくるんだろうな。



一旦は父も自宅に戻ってきて、15年ほど在宅介護でケアしてきたけれど
いつしかそれも限界を迎え、医療設備がきちんと整った施設や病院に
お世話になることになった。



介護保険の導入を経て、入所・入院出来る施設や病院の門戸が開かれ
転院するたびに、不思議と父の病院が家に近いところになってきた。
幸い、今は私も運転が出来るようになったし、車もあるので片道10分という
本当にありがたい環境になっているが、振り返ればやっぱり
それなりに長い道のりだったのかもナ〜と思う。



車の車内にある時計を見たら、もう5分以上も待たされている。
段々イライラしてきたな。。。



目の前の踏み切りを通り過ぎる列車が、少し速度を増してきたので
もうすぐかな〜と思ったら、今度は反対側の矢印が点灯し
やおら待たされて、長い長い貨物列車がノロノロとやってきた。



ウハ〜。
1両2両…と数えていたら、睡眠マジックにかかりそうになったけど
その手前を近距離電車がプワ〜ンと一気に走り抜けて行き、ハッと眠気が覚めた。



その後、やっと遮断機は上がったけれど、まずは人と自転車を先に渡さねば
危なくってショウガナイ。



前の車が線路内に入って行ったので、ライトをつけて左右確認をしていたら
また踏み切りの音が鳴る。。。
停止線ぎりぎりに停まってしまったので、目の前に遮断機が下りてきた。
「アンタはま〜〜〜だだよぅ」って言われている感じ。



くぅぅぅぅぅ。こういうの、悔しいよねー!



あ、鞄の中で携帯メール着信を告げる音がする。
誰だろう…と眺めてみたら、夫からだった。
「なんか電車が遅れているみたいで、まだ途中駅。少し遅くなる」



はいはい。十分に承知しておりまする。
ここでこれだけ開かない踏切りに遭遇したのは初めてだもの。



再び徐行運転をしながらのろのろと下り列車が通り過ぎていった。
その車内には、すし詰めにされた沢山の通勤客たち。



夫も電車は違えど、あの中のひとりなんだなぁ〜って思った。
年明け早々、皆さんお疲れ様ね。
口には出さねども、ひとりひとりが大きな課題や責任を背負って生きているんだろうな
きっと。。。ね。