ひい祖父さんのオハナシ

今日は朝から父の酸素濃度が低く
夕方にはとうとう呼吸困難をきたしたらしい。



用事を終えて病院に行ったら、父の病室の前に医療用具の載ったワゴンがあり
看護師さんたちが忙しそうにバタバタ…と出入りしていた。



ただならぬ雰囲気に一瞬、どきん!としたけれど
人間の肉体は有限のものだから、一度は誰もが通らねばならない道。



処置を終えて、しばし様子見となった。
いつもより長い時間、父の病室の椅子に座り
大量に送り出される酸素のシューシューという音を聴きながら
ぼんやりといろいろなことを考えた。



突然だが、母方の曾祖父のことを思い出した。
勿論、私は生きて会ったことはない。
母が高校生の時に亡くなったらしいが
とにかくとんでもなく肝が据わっているというか
一種ユニークな人だったらしい。



曾祖父は東北の農村に生まれ育ち、広い田畑を所有していたが
若くして伴侶である私の曾祖母を亡くした。
子供に恵まれなかったので、祖母を養女に迎え祖父が婿入りし
晩年は3人の孫(母と叔父たち)に恵まれたが
昭和30年代の半ばに、胃がんで他界した。



今でこそ医療も進歩し、初期のがんなら早期治療で完治も見込めるが
当時は「がん」といえば死の病。
町医者では埒が明かず、山形の大きな病院に行くようにと言われ
そこで「胃がん」と診断されたという。



時代は移り、今の世は自分の病の告知をどうするか
自分で選択出来るようになったけれど
昭和30年代なんてまだまだ…
特に「がん」なんて本人への告知はご法度な時代。



曾祖父はひとりで「山形に行ってくる」と出かけて行った。
医者には「ひとりで来たのか?」と聞かれるほどの状態だったらしいが
「自分の病気は自分がしっかり知っておきたいから」と気骨の人らしく
当時は珍しい本人へのがん宣告を、堂々と正面から受け取った。



「うむ、わかった」と、それを聞いた曾祖父は
病院を出たその足で、山形一と言われる仏具屋さんに乗り込み
「この仏壇とそこにある位牌を売ってくれ」と
いきなりデッカイ買い物をして帰ってきたらしい。



そうそう、その途中で菩提寺のお寺に足を運び
位牌を差し出しながら
「戒名をつけてくれ」と馴染みのお坊さんに頼み
ちゃんと納得のいく戒名をいただいて家に帰ってきたという。



驚いたのは、家で待っていた家族たちだ。
「山形に行く」と言っていたのに
いきなり仏壇と位牌と戒名を持って帰って来たのだから
ビックリ!を通り越して、はぁ〜?って感じだっただろう。



そんな曾祖父の生き様は、ホントに天晴れ!だと思う。
そして、直接血の繋がりはなくても
私の中にも間違いなくその精神は受け継がれているんだろうなーと思って
思わず、ふふふ・・・と笑ってしまった。



ひい祖父ちゃ〜ん、私もね、自分のがん告知も治療も
ひとりだったよ〜って何となく口に出して言いたくなって
ますます可笑しくなった。



そして・・・ふと、父の顔を覗き込んでしまう。
長い長い闘病と寝たきりの生活。
20年を超える期間なんて、気が遠くなりそうだ。



それに耐えてきた父の精神力も半端じゃなく強いものだろう。
今は家族といえど私も何もしてあげることは出来ないし
ただベッドの隣に椅子を置き、そこに座ってそばにいてあげることだけ。



ホントに人間の一生って、ひとつひとつがドラマなんだなぁ〜としみじみ思う。



今夜も灯りを全部消さずに、母と交代で仮眠をとる。
兎にも角にも、寒い時期ゆえに、私たちの健康がしっかり守られますように、と
そっと手を合わせて祈ってみるが
今宵は曾祖父のユニークな行動がとてもリアルに浮かんで来て
思い出し笑いを「ふふふ・・・」って、何度もしてしまった。



何となく、ふわ〜っと温かな気持ちになった。